超高速!参勤交代

参勤交代とは?

江戸・日本橋を起点に広がる五街道

【参考文献】永井 博  「別冊歴史REAL 歩く・観る・学ぶ 参勤交代と大名行列」洋泉社 2012 「山本博文「参勤交代」講談社 1998

なんのために?参勤にかかる費用と一年間の江戸での滞在費は莫大なもので、藩の財政を圧迫することに。 大名にたくさんお金を使わせて、力を弱めさせることで、幕府の権力を絶対的なものとし、反抗させないために取り入れられた制度といわれています。

いつ?1635年(寛永12年)、三代将軍・徳川家光の「武家諸法度」で明確に制度化。

一年おきに江戸と国元の間を往復させ、諸国大名に将軍への忠誠を示させ、さらに妻と子を人質として、江戸に住まわせ、幕府の監視下に置きました。ちなみに行きが“参勤”、帰りが“交代”になります。

一年おきに江戸と国元の間を往復させ、諸国大名に将軍への忠誠を示させ、さらに妻と子を人質として、江戸に住まわせ、幕府の監視下に置きました。ちなみに行きが“参勤”、帰りが“交代”になります。

驚きがいっぱいの 参勤交代日本国内、何千人もの行列を 何十日間にもわたって 移動させる 藩の一大プロジェクト当然ですが、携帯電話もネットも新幹線もない時代。半年前から準備をはじめ、江戸までのルートの確認、同行する藩士の人選、日々の食事内容から宿選び、道具や衣装、献上品の手配に至るまで、様々な下準備が必要となりました。さらに無事出発してからも、道中、雨が降れば橋が流され“川止め”にあったりで日程変更も常。その分、宿泊費が増え食費も人数分増し・・・。 時には、宿場で他の藩とかちあってトラブル・・・など事件も多発。そんな状況にも臨機応変に対応しなければならず、まさに藩士同士のチームワークや宿役人との交渉力が試されました。見栄と権威に覆われた 華麗なショー参勤交代の行列はいつも整然と行進していたわけではなく、江戸市中や宿場、国元に入る時だけピンポイントで整列し直したりしたそうです。さらに江戸や国元にいる家臣をその時だけ参列させたり、雇った人足を加え人数を増やしたり、道具も金や美しい衣装で飾り立てようとし、厳しい財政の中でも見せかけの権威を維持しようと四苦八苦していたといいます。 そんな大名行列を楽しみにしていた庶民の間では、各大名の家系図、石高、家紋や行列道具など詳細データが載った「文化武鑑」(国立国会図書館蔵)という、まさに“大名行列見物ガイド”が広く愛読されていたそうです。「文化武鑑」4巻 国立国会図書館所蔵

時間/経費削減のため、 日数節約・・・参勤する日数がかかれば、その分、出費も増大するため、江戸から遠ければ遠いほど費用もかかり、日数を節約するために早朝から日没まで1日約40キロも歩いたそうです。 薩摩藩の場合は、参勤に1か月もかかったので、その費用は莫大なものでした。湯長谷藩は、隔年6月に5泊6日で参府したとの記録があります。

時間/経費削減のため、 日数節約・・・参勤する日数がかかれば、その分、出費も増大するため、江戸から遠ければ遠いほど費用もかかり、日数を節約するために早朝から日没まで1日約40キロも歩いたそうです。 薩摩藩の場合は、参勤に1か月もかかったので、その費用は莫大なものでした。湯長谷藩は、隔年6月に5泊6日で参府したとの記録があります。

なんのために?参勤にかかる費用と一年間の江戸での滞在費は莫大なもので、藩の財政を圧迫することに。 大名にたくさんお金を使わせて、力を弱めさせることで、幕府の権力を絶対的なものとし、反抗させないために取り入れられた制度といわれています。